何でもない日の近所の飲み屋のカウンターでのこと。
友人たちが、次の目的地である京都に向けて旅立った。
また日常が戻ってきた。
自分が旅に出なくても出ても、旅の感覚に戻れるのはうれしい。
旅に出るのも好きだけど、何の変哲もない日頃の暮らしも好きだ。
広島と大分の友人に手紙を書いて、郵便局まで出しに行った。
窓口には5人くらいの人が並んでいた。
待つのもいいもんだと、エアコンの効いた室内で周囲のやり取りに耳を澄ます。
海外に荷物を送ろうとする女性、切手を買う男性、局員に何やら尋ねる女性・・・。
ローカル列車の車窓から外を眺めるときのような時間が過ぎた。
ご無沙汰の非礼とまた近々に山口へ来て欲しいという主旨の手紙を投函せずに、局員さんに「よろしくお願いします」と手渡す。
綺麗な女の人がにこやかに笑顔で受け取ってくださった。
これだけでも、歩いて郵便局まで来た甲斐があるというもんだ。
笑顔は無償のお布施らしい。
帰り道に、赤提灯に誘われてふらりと引き戸を開けて、飲み屋に入る。
煮しめたような暖簾をくぐると、結構早い時間にも関わらず、テーブル席は埋まっている。
おでん鍋の前のカウンター席に座って、生ビールと厚揚げを注文した。
週刊漫画雑誌を取りに本棚まで、狭い店内をよけるように歩くと、同じ年くらいの背広の男性が「こんにちは」と。
どこかで見た顔だけど、彼には女性2人のお連れさんがいたので挨拶だけして、絡まずに席に戻る。
大勢の友達と遊ぶのもいいし、一人で酒を飲みながらマンガを読むのも至福の瞬間なのだ。
後ろのテーブル席では、おそらく初めてこんな店に入ったのだろうという3人の部活帰りの高校生がカツ丼を食べていた。
恐る恐るみたいな様子で、「清算をお願いします」と言っているが、あいにくの忙しさでお店の耳には入らない。
「お勘定ですってよぉー!」
自分にもこんな時期があったなぁ。
馴染みの店なのでデカイ声で代わりに言ってあげたら、その高校生はデカイ声で「ありがとうございます!」と。
体育会系は清々しく爽やかだなぁ。
もう何年かしたら、こんな店で正々堂々と飲めるね。
彼らからしたら、俺はまだ暗くもならないうちから酒を飲んでマンガ読んでるオッサンだな。
どうだ?うらやましいか?はやく大人になろうぜ。
心の中でそんなことを思った。
ひとつ席を空けた隣りでは、坊主頭の恰幅のいい男性が冷やし素麺と焼き飯を食べていた。
一人で来ているはずなのに、話し声が聴こえた。
空耳かなと思ったら、隣の男性が一人で話している。
それも絶え間なく。
何を言っているのかは分からないけども、怒っているのだけは分かった。
見てはいけないものを見るような気がして、横目でチラ見すると、食べながら、喋りながら、怒っていた、一人で。
目は中空を見ていた。
飲み屋のカウンター席で、酔いもせずに一人で怒っている人を見たのは初めてだ。
きっと頭の中にストーリーがあって、ずっとそのことにハマっているのだろうな。
その物語の中ではきっと彼は「被害者」なのだ。
頭の中にいる加害者に向けて、被害者である彼はずっと文句を言っている。
被害者のアイデンティティに自分を同一化したままだと、焼き飯の味も分からないだろうに。
そう思いながら、「自分もそうならないように気をつけよう」って思った。
そう思ったら、そう思っている自分と会話してる思考に気がついた。
実際に声帯を震わせて、声に出してはいないくらいの違いで、自分も思考とかマインドみたいなもんに捕まりながら、厚揚げを食べていた。
カウンターテーブルの上に残った生ビールの水滴を拭い、マンガを本棚に置き、店を出た。
「ごちそうさまでした!!」