あれからこれまでのこと。  しなくてはいけないことはなにもないし、みるべきものはめのまえにある。

あれからこれまでのこと。


 何も考えずに走ったり、歩いたり、食べたりしながら、笑ったり、泣
いたり、怒ったり、喜んだりしている時期があった。

 だんだんと地元で生きている、同じくらいの年のやつらとつながるよ
うになった。

 けれど、そいつらはちょっと年上だったり、女だったり、男だったり
した。

いろいろな世界があることを少しだけ知った。

 家の事情もマチマチっぽかった。けれど、そんなことはお構いなしだった。

 そんな日々だったのに、ある年のだんだんと暖かくなった頃に、急に
変な服を着せられて、同じ背格好の檻に入れられた。


 それを幼稚園と呼ぶと知ったのは、その檻に入って当分経ってから
だった。
 それまでは、なんかすっごい近い感じの暮らしだったのに、突然に
「先生」と言われるタイプの生き物の登場した。

 マジ困った。

 面白いとも思わないお遊戯を面白くないと言ったら、呆れられた。

「担任の先生」が年中、年長と続いて、ハッキリと「もう飽きた」と言うと驚かれた。


 ランドセルを買ってもらうことがうれしかったのは、入学式から数日
まで。

 遊んでいれば良かった小さな檻の中と違って、今度の大きな檻では椅
子に座ってじっとしていろと言われる。


 時間が過ぎるのが遅くなったのはこの頃から。


 大きな檻では、先生と呼ばれる生き物が優しい女の人から、最悪の整
髪料臭いおっさんに変わった。


 面白くないから窓から出入りしたら、コメカミをグリグリされた。


 登校の途中で自動車のエンジンプラグを拾ったから、何かに使えない
かなと思って、水道の栓に突っ込んで噴水にしてみたら、ぶち殴られた。


 それでも6年も修行するうちには、なんとか要領を得たサルになり、
なんとか「協調する」ことに成功した。


 入学式で、誓いの言葉を壇上で述べて、長ズボンを履くようになった。


 長ズボンを履いているうちは、何だか分からないくらいに過ぎていき、いろんな友達と遊んだ。


 いろんな人がいるってことをまた少し知った。


 とにかくいろいろな人がいる。


 それがたまたま、本当にどうでもいい「年が同じ」ということだけで、「集められている」ということは、様々な人がいるということを知るという点でのみ有用だ。


 どうやら、世間という実態のないものが要求するものは「大学進学」
という無意識の道らしいとなんとなく感じたので行ってみれば、これは
「人生の有給休暇」



 今まで、小学校、中学校、高校とどうでもいい記号番号暗号を記憶し
て吐き出す訓練をきたのは、この有給休暇を満喫するためだったのだと
悟った。


 しかし、そのとき分かったことは「勉強ってのは実質的には何にも役
に立たないことだったのだ」ということ。


 そしてもう一つは、今まではこれをしなさいと与えられたことを忠実
にこなしてさえいればオールOKだったのが、「急に好きなことをしなさい」に変わったということ。


 それはコペルニクス的転換だった。


 あ、そうか。


 好きなことをしていいんだ。


 大学へ進学して分かったことは、「僕は勉強が嫌い」


 もうこんな無駄なことはない。


 6、3、3、4と16年も勉強して分かったことは、好きにしていい
ということ。

悪い冗談だろ?


 さっさと必要な単位を取り、学校へは極力行かないことにして、バイ
トと旅に明け暮れた。


本当にどうでもよくて書いた「現代日本の新宗教における救済」というテーマの卒論を教授は面白がった。


好きなことをやると、うまくいくってのはどうやら本当らしい。


地元の新興宗教に入信して、自分がどう思ったかを書いてみただけなのだが。

散々、長時間に渡って、道徳人倫を語った教祖が最終的には「掛け軸」を15万円で販売していた。


 いくつかの宗教を見てみたが、どうしてそれを抵抗なく受け容れられ
るかは全く理解できなかった。


 好きなことをしていいのは分かったものの、仕事にするような好きなことも見つからない。


 周囲は県庁や市役所に勤めて公務員になるための勉強を始めていたが、「僕は勉強が嫌い」ということが分かったしまったので、もうこれ以上そちらの道へは進めない。


 大学へ入ったくらいに死んでしまったおばあちゃんの遺言には「公務
員になれ」みたいな堅いことが書いてあったけど、それを「お前の好き
に生きなさい」と読み替えるくらいの国語力はさすがに受験で身につけ
ていた。



 とにかく早く決まったところに就職をしようと思って、誰にも相談せ
ずに、3年の終わりには地元の会社の内定をもらって、内定者の交流会
には出ずに、アジアやヨーロッパを旅して周った。


 それでも「就職したら、もう旅は終わり」なんてことを思ってた。


 そんな筈もなく、会社員生活は3年で破綻する。


 バブル全盛で、銀行や証券会社がもてはやされていたけれど、祖父
ちゃんが一生懸命に下駄を作って、大学まで出してくれたことと、お金
がお金を生み出す経済というものをどうしても頭の中で接続することが
できなかった。


 どうせやるなら、何かが作られる方が有益だと思って入った住宅産業
は、産業と名が付くもののそれは破壊業だった。

工場生産化率80パーセントを誇っていたユニット住宅が、実は中産階級を30年の住宅ローンに縛り付けるワナだとはその時には知らなかった。


 古いがしっかりした造りの古民家を壊して、廃棄物予備軍の新築プレ
ハブを建ててゆく。


 本当に儲かったが、本当に狂っていた。


 その3年のうちでは、結婚も経験し、子供も授かっていた。


 就職したら落ち着く、結婚したら大丈夫、子供が生まれたら妄想しな
くなる、しかも2人目ができたら・・・。


 そんなものは全部デタラメだった。


 会社も辞めて、嫁も子供も放り出して、やっぱり旅に出た。

下関から船に乗って、行けるところまで行こうと思ったら、南米のグアテマラで気がついた。


自分の居るべきところはここじゃなくて、地球の裏側。


 インドでマザーハウスで働いたときに、これほど面白いもんはないと
思って、帰国後にホームヘルパー2級の講座を受けた。


 調子に乗って、バイクで事故って車椅子生活をしてみたりして、『介護される実習』までした。


 手術のときの麻酔が効きすぎたのか、特別養護老人ホームで介護職員
として勤務してみたけど、2年でギブアップ。


 インドの介護はあんなにも楽しかったのに、日本の介護は「刑務所の
看守」のような仕事に思えたのだ。


 4月に子供の入学式に出て、ロケット噴射のように勢いが付いて、走
るような旅を10ヶ月した。


 旅から帰ってきても旅のような感覚が抜け切らず、それを「大陸ボケ」と笑ってくれる人たちがどんどん家にやってくるようになった。

 そのときくらいから、どんどんこの国で暮らすことが楽になってきた。


 大陸ボケは俺だけじゃない。


自分の部屋だった物置部屋をチェンソーでぶっ壊して、収拾が付かなくなったところで、素晴らしい感性の大工さんに出会い、面白い空間ができた。



 やっぱり介護の仕事が好きでそれも続けながら、家にに来る友人たちと旅の感覚も味わう。


自分の居場所にいながら、あの旅の感じになれるからそれでよかった。


なんという流れなのか、旅のツナガリの中から、今まで知らなかった
ことをたくさん知るようになった。


 知ってしまったら、もう戻れなくなった。


 知ってしまって頭でどうにかしなくてはと思ったときもあったが、そ
のときは頭が先に走っていただけで何にもならなかった。


 体力も知恵もないままに田んぼを借りて米を作ったら大失敗。


田舎から有機野菜を買って、TV局の前に卓球台とムシロを置いて売ってみたが全く儲からずに損ばかり。


米は作るものではなくて買うものだと確信したはずだが、なぜか米作りの手伝いをさせてったりして、めっちゃ楽しい。


今は、介護の仕事を辞め、また一番始めの「何も考えずに走ったり、歩いたり、食べたりしながら、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだりしている時期」に戻ったようだ。

しなくてはいけないことはなにもないし、みるべきものはめのまえにある。



 また、戻ってきたような気がする。


いったい何をしているのだろうかと思いながらも、これでいいのだと思う。


結局、料理したり、病気の友達の介護したり、近所の年寄りと遊んだりしてる。


喜んでもらえるって、うれしい。



割と、ありがとうって言われるよ。





おわり