『福田村事件』を観て、感じた。

映画『福田村事件』
 暴力的で無知蒙昧な輩が起こした事件ではなく、市井に生きる普通の父親、母親がデマに扇動されて、暴徒化して起こった事件だからこその怖さがある。
 しかもその流言飛語が恣意的政治的に、戒厳令下で内務省の通達で流されていたこと、警察官憲もそれに加担してきたことが映画の中で描かれていた。
  2023年8月30日、関東大震災100年の前日に松野博一官房長官は記者会見で、震災当時に起きた朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べ、歴史的事実の有無への言及を避けた。このことが逆にこの映画を世間に知らしめることになった。
 内務省が海軍東京無線電信所船橋送信所から各地方長官宛に出した電文「鮮人ハ各地ニ放火シ不逞ノ目的ヲ遂行セントス既ニ東京市内ニ於テハ爆弾ヲ所持シ石油ヲ注ギ放火セル者アリ(以下略)」や、内務省から埼玉県庁を通じて県内各町村に伝えた「暴行ヲ為シタル不逞鮮人多数ガ(中略)本県ニ入リ来ルヤモ知レズ、(中略)町村当局ハ在郷軍人分会員、消防手、青年団ト一致協力シテ其警戒ニ任」ずるようにとの通牒が流言を拡げ、警戒態勢を構築させ、各地で自警団が結成された。それが虐殺事件を引き起こす原因となった、これが事実だ。
 映画の中では、当時の社会背景にあった社会主義者への弾圧も描かれており、大震災に乗じて戒厳令を発し、大規模な思想統制弾圧があったことが分かる。その上に韓国併合に反発する独立運動を同時に封殺しようという流れがあったのだ。
 永山瑛太演じる讃岐の行商薬売りの親方の『鮮人なら殺してもええんか?』の声が今も胸に響く。彼ら15人の行商人が香川県から来た被差別部落の人々だったことが事件が100年も明るみに出なかったことの遠因だということも更に複雑な思いだ。
 僕は山口県に住んでいるという地の利から韓国の渡航は両手では数え切れない。維新の功績を謳う山口の教育を受けてきた身に、伊藤博文が海を渡ると大悪人と認識されるのは、始めはショックだった。(ここの認識は今も異なる、伊藤は韓国併合には最後まで反対していた。)
 韓国の人の口から豊臣秀吉の侵略が話題に出ることに辟易していたのも正直な感想だが、韓国人牧師の金鐘洙氏との10年以上の交流から、関東大震災における朝鮮人虐殺のことを知ったときには、頭を横からぶん殴られた思いだった。
 彼が出版した『飴売り具学永』の絵本も読み、講演にも足を運んだ。韓国と日本を仲違いさせたいという意思は彼にはない。むしろ歴史を直視して、日韓関係を再構築させたい。彼の思いはその優しい笑顔と同じく深く熱かった。僕は金鐘洙氏から、韓国で開催される関東大震災100年追悼事業への招待も受けた。
 だが、僕はその追悼式典に行きますという返事は出来なかった。あまりにも重たい。
 だから、僕は『福田村事件』の森達也監督、出演者、製作スタッフの方々に敬意を表したい。
こんな映画を作ったら、出演したら、「反日」って言われるに決まってるじゃん。
 我々は、いや私は目をそむけたくなるような歴史の事実を直視する必要がある。山口県には、脱隊騒動、三浦梧楼の閔妃暗殺、赤禰武人の冤罪など明治維新の栄光の陰の部分がある。長州ファイブは英雄か?金融、鉄道、郵政、様々なシステムを西洋から輸入した目先の効く英国の子飼いではないか。
 明治維新の闇、そこに光を当ててこそ見えてくる未来があるのではなかろうか。
誰もが無意識のうちに加害者にもなり、被害者になりうる。
そのことを心に刻んでおこう。『福田村事件』を観て、感じた。