「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス
「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス
1988年2月2日付け産経新聞に連載されている『戲論』 で「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言の誤訳を指摘した文章から引用する。
『じつは、そんな言葉は存在しないのだ。
古代ローマの詩人ユウェナリスは、若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを 嘆き、「健全な肉体には健全な精神も!」( 肉体だけ鍛えてもダメ !)といった。その言葉が明治時代に日本に伝えられた時、なぜか(たぶん富国強兵のムードから)「健全精神は健全な肉体に宿る」と正反対の意味に誤訳されたのだ。』
引用、終わり。
ユウェナリスは、つまりは「身体を鍛えるだけではなく、知性を身に付けよう」という詩を読んだのだ。
(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body)
ユウェナリスの十番目の詩 で、その内容をまとめると次のようになるという。
『人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。
例えば金持ちになること、 例えば長生き、例えば美貌。
しかし、これらはなかなか手に入りにくいだけでなく、手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。
金持ちになっても泥棒の心配が増えるだけ。
長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。
美人になっても不倫に陥って苦しむだけだ。
「心身ともに健康であること」
願うならこの 程度にしておきなさい。
これなら誰でも自分の力で達成できるし、それが手に入ったことによって不幸になることもない。
しかし、けっしてそれ以上の大きな願いを抱いてはいけない。
つまり、ユウェナリスが言いたかったことは、要するに「青年よ、大欲を捨てよ」であるらしいのだ。
そして、例の文の本当の意味は「心身ともに健康であれ」という祈りである。』
もちろん、詩は解釈次第でどのようにも受け取られる。
ユウェナリスの詩も同様であり、真意は彼にしか分からないとも言えなくもない。
だからこそ、通説としての格言を用いて持論を展開する際には、様々な意見があることも受容できる寛容さ、別の角度から認識できる柔軟性とオルタナティブな態度こそが知性への一歩ではないだろうか。
前後の文脈や時代背景を鑑みることなしで格言が一人歩きすることもあるのだから。
さもなければ、「健康のためなら死んでもいいと思っている」と揶揄され自分の身体のことだけしか考えず病院に通い薬を飲んで知性を磨かない日本の高齢者と、ユウェナリスが嘆いたとされる「体を鍛えるだけで勉強しない」古代ローマの若者と何の違いがあるだろう。
現在、認知症予防に様々な方策が採られている。
投薬、体操、食習慣改善・・・。それらにしても、唯一無二の「これだけ」の思考停止でなく、「これもやってみようかな?」という柔軟性とこそ大切ではないだろうか。
古代エジプトの石版の文字を苦労の末に解読してみたら、書いてあったのは「今時の若者は・・・」という愚痴だったというジョークがあった。
何千年もの間、世代間の隔絶すなわちジェネレーションギャップが当時の問題であり続けたということを皮肉っている。
この期に及んで原発を新規建設、再稼動しようとする年寄は、もはや「老害」にしか思えないが、「今時の年寄は・・・」というのは止めにして、対話を続けたいと思った。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という誤訳が広まった明治時代の時代背景に「富国強兵」があることと、「原発の維持は国力の維持」という発想には共通したものを感じる。
「原発を新設、再稼動しなければ中国、韓国に負ける」そういうことを主張する年寄と話していて、目眩がした。まさに「富国強兵」の真っ只中なのだ。
今はまだ明治時代、いや古代ローマなのだ。