昔は商店街も賑やかで楽しかったよ。

商店街のこと。

 かつては商店街にも子供がいた。

 だいたい「商店街」なんていう言葉を知ったのは、小学校の社会科の
授業を受けてからのこと。

 自分の遊び場が「商店街」と呼ばれていると知って、そのときアー
ケード付の全天候型の遊び場を僕はクラスの中で誇らしく思った。

 課外授業で「商店街」が取り上げられたときなんて、庭を案内するよ
うな気分だった。


 お店の奥にはたいがい生活があった。
 「しんちゃーん、遊ぼー!」と呼ぶと傘屋さんの一番の仲良しが顔を出す。
 たいていの店の奥には住まいがあり、間口に比べて奥行きがとても深
い。
 「町屋」なんていう洒落た呼び方があることを知ったのは、40を間近にしたつい最近のことだ。

 だって思春期を迎えた中高生の頃なんて、細長くて、中庭ばっかりで、両サイドが壁だから日当たりの悪いこの家が嫌いだった。

 だけど、今は分かる。

 ここで曽祖父が建てた家は理に適っていたんだ。

 商品の倉庫、ストッカーも兼ねているので、家の敷地に一本の通路が
通り、それに沿って部屋が作られる。明かりを採るために坪庭が3箇所ある。

 家の中での部屋から部屋への移動は靴を履き替えて。

 どこの家もそんなもんだと思っていたら、そうじゃなかった。

 地元の小学校、中学校、高校、大学とまぁそういう人生なのだろうと
思われる方向を何の気なしに進んで、何にも考えずに入った住宅メー
カーに勤めているときに作っていたのは、そういう家の対極にある「建
替え40日」を謳う鉄骨プレハブユニット住宅だった。

 今思うと、暮らしのある家と、まず設計がある家の違いは天と地ほど
ある。

 けれど、そのときの自分にはTVに出てくるような白い家への憧れの
ようなものがあったことは本当だ。


 それはともかく、子供の頃には家のことなんてどうでもよく、傘屋の
しんちゃんや時計屋のてっちゃんと遊ぶこと、それで一日は終わった。


 ダイエー山口店の裏の川、長寿寺の境内の公園、金竜館の前の広場が
遊び場だった。


 職人さん手書き菅原文太松方弘樹の看板の前で、僕らは日が暮れ
るまで”だるまさんが転んだ”とか”かごめかごめ”とか”泡ぶくたっ
た煮えたった”をしていた。


 そう、どこかインドの田舎町のような夕暮れ時がまだあったのだ。

 今のように気密性の高い建物じゃなかったから、隣の映画館からは時
折、ゴジラの吼える声がしたし、それでよかったし、誰も文句を言う人はいなかった。

 祇園祭りのお神輿の日には眠たくもないのに昼寝をさせられた。

 いつもよりも興奮していたから眠れるはずがなかった。

 魚屋のおじさんがいつも子供会のお世話をしてくれてて、ハッピを着
て一時間ほど「ワッショイ!」と言ってたら、袋いっぱいのお菓子がも
らえた。


 今思うと、「お菓子をもらってうれしい」くらいが本当に幸せだ。

 仮面ライダーごっこや花いちもんめに飽きると僕らは補助輪付きの自
転車に乗って、文栄堂書店に行き、店頭に座り込んで、お気に入りの絵
本を広げた。

 中学生になると、向かいに誠文堂書店ができて、ここで立ち読みさせ
てもらったことが今の脳の半分くらいの知識。

 あまり近所の本屋では買えないエロ本は駅通りのおばあさんの本屋で買うしかなかった。


 とりあえず、商店街のアーケードの中が全世界だった。

 だって、そこに全部があったから。

 初めてのアルバイトは近所の喫茶店、接客を教えてもらったのはダイ
エー山口店1階UCCスナックプラザ、朝から晩まで働いた駐車場整理。

 良かったのか悪かったのか、酒を覚えたのは「おでん 一八」

 原付に乗れるようになり、車の免許を取り、世界地図を広げてどこに
でも行けるようになってから、そこが全世界でないことを知った。

 調子に乗って、地球を一周してみたけれど、帰ってきたのはやはりこ
こ。


 子供の頃、仲良しのしんちゃんとケンカして泣いて帰って来て、なぐ
さめてくれるのはいつも祖母。


 「子供同士のケンカ。放っておけ」


 店の奥で下駄の鼻緒を日がな一日立てつづけてた祖父は眼鏡の奥の目
をこっちに向けることなくそう言った。


 ケンカの後で泣いた目の中で町屋の暗い通路を照らす豆球の光がにじ
んで見えた。


 そして、今は商店街は「シャッター通り」になった。


 小学校を卒業する前に下駄屋さんを廃業したのは、祖父の病から。


 よくもまぁ下駄の鼻緒を立てることで、母と叔母の二人の娘を育て、
最高学府までの教育を受けさせ、嫁にまで出したなぁと思う。


 そして、子供を育て上げたなぁと思ったころに、破天荒な娘のために
育てる羽目になった孫2人。


 よくやったと思う。


 目の前に、僕を育ててくれた祖父母の写真を置いている。

 二人の後ろには、賑やかだった頃のお店がある。

なんて良い時代なんだろう。

 自分のことを思うとき、暮らしている場のことを思うとき、この
シャッター通り」となってしまった商店街のことが気になる。

この町のことが本当に気になる。

耕作放棄された農地と同じように、僕にはシャッターの閉まった商店街が悲しく見える。

 上関の室津のおばあちゃんと話していて、そのことが更に分かった。


 「この町はね、原発ができんと死んでいく」と室津のおばあちゃん。

 
 同じだ。
 同じなんだ。



どんな世界をリクリエイトしようか。