中国電力50年史 〜あなたとともに、地球とともに〜  山口県との復元問題



中国電力50年史 〜あなたとともに、地球とともに〜

通史編 第2章 近代的経営の確立と経営体質の強化
第1節 経営体質の強化 4.全国初の料金引き下げ
(2)山口県との復元問題解決より引用

P.108 〜



(2) 山口県との復元問題解決

 大正9(1920)年12月の錦川水力電気事業の計画をしたことに端を発した山口県営電気事業は、徐々に戦時色が濃くなっていく社会情勢を背景に、電力の国家管理を志向する政府が成立させた電力管理法の実施により、昭和14(1939)年4月、主要な火力発電と関連施設を日本発送電へ出資し、県営電気事業の枢軸を失った。さらに、その後の配電統制令により、残る設備をすべて中国配電に出資して、17年3月末日をもって山口県営電気事業は姿を消した。


終戦後、21年から顕著となった電力不足は、電気事業公営の運動を呼び起こす一因となり、山口県においても配電事業の県営復元にむけた取り組みがなされたが、26年にGHQの強い意向をうけた電力再編成が実行されたことにより、電気事業の公営復元運動は中断されることとなった。


しかし、復元運動は27年の対日講和条約発効を機に再興し、30年代前半には、各県都市と電力会社との個別協議がおこなわれるようになる。



山口県においても事業復活をめざすこととなり、議員提案により山口県議会に電力問題対策特別委員会が設置されたのは、35年2月8日であった。


日本発送電および中国配電に「強制出資させられた」旧県営電気事業の全面復元をはかるため、協議を開始したいという申し入れが当社にあったのは同年2月20日。当社としては山口県の主張は理解できるものの、復元には立法措置が必要であり、それが行われないのであれば交渉に応じることはできないとした。また、現実問題として復元は不可能であり、他に解決方法があれば誠意をもって検討すると回答した。



この復元問題も、その後の5年間にわたる交渉の結果、40年3月には完全な解決をみたのであった。



引用、終わり。


何度も読んでみたけれど、何のことだかサッパリ分からなかったが、こうして文字に起こしてみると少しずつ分かってきた。


山口県中国電力筆頭株主であるのは、こういう理由があってのことなのかもしれない。



昭和40年、つい最近の話だ。






山口県営電気事業を復活させようとしたときの山口県知事は誰だったのだろう?



このときに山口県庁の職員だった人は誰だろう?









「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」

高杉晋作みたいな県庁職員とかがまだおったのかもしれんなぁ。







高杉晋作、功山寺挙兵にて。三条実美ら五卿への決起の挨拶。

高杉晋作の呼びかけに呼応して藩内クーデターを起こすべく立ち上がったのは84名、対する長州藩本体は3,000人。

兵力には絶望的な差があった。





たった48年前に、山口県営電気事業を復活させようなんて考えてた人がまだいたんだと思うと、ちょっとわくわくした。



明治維新は武力だったけど、昭和の40年代までエネルギーを自分たちの手元に取り戻そうとする人たちがいたってことだと思う。




エネルギー維新を掲げた県知事候補の選挙の応援とかもしてみたけど、結局太陽光発電がどうのこうので、第4の革命だとかいう映画も観た。



電気自動車を推奨してるのを見て、「んなわけねぇだろ?」と思った。



子供の頃、ラジコンのバギーはニッカド電池で走らせた。板の間や畳の上ではよく走ったが、絨毯の上や砂場はすぐに電池を消耗した。


ちょっと年上の兄ちゃんたちが走らせる2ストのエンジンを載せた車は信じられないくらいの馬力と速度で走った。




本当の意味での民主主義とか主権在民とかっていうのは、何も政治だけの世界の話じゃない。



明治維新は刀や銃を使った。


選挙では選挙権を行使した。


電気が足りている山口県は、電気事業を取り戻さないか?



まだまだ未熟で他人様のことをどうのこうの言える身ではないのを承知しつつ、できるだけ自立の方向で生きたいと思う。


家族と仲良く暮らし、近隣の人と笑顔を交わし、大きな視点で物事を観たい。


今の中国電力株のように乱高下に脅えながら保有し続け、いつ無くなるか分からない配当にハラハラすることもない。


県民の財産のポートフォリオの問題だ。


世が世なら殿様の個人資産であるのだが、山口県の保有する中国電力株は県民のものだ。


エネルギーにも地方自治を。




夢かもしれない。