上関原発計画と、自分の住む町のこれからのこと。




もともとが原発どうのこうのじゃなくて、祝島の神舞に感動したからなんだ。

祝島の人たちが県庁に申し入れに来るという話があったから、地元山口市に住む者として、県庁に行った。

寒空の中で思った。

上関で起っていることと、地元山口、殊に山口市中心商店街で今起っていることはどうリンクするのだろうか?

自分の中でどうつながるのか?




地元の人たちの集まりっていうか、飲み会っていうか、そんな感じな場で

「山口には原発は要らない」って言ってみたけど。

「電気を使っていながら、自分のところには要らないってのはエゴだ」と一蹴された。


30年間、生活を犠牲にして反対を続け、昨日も朝一番の船便に乗り、バスをチャーターして県庁に申し入れに来ていた祝島のじいさん、ばあさんの前にして、そんなことを言えるのか?!

そもそも自分とか他人とか、そんな境はないんだから。

って言おうと思ったけど、場が白けるのを感じたから止めた。

自分の中の感情みたいなものが噴出してしまっても、本当の意味での相互理解はできない。


電気を使いながら原発に反対するのはダメ・・・という言い方はもう古い。

原発に頼らない電源を使いたいし、そのための節電はみんなやっている。うちだって電気代は2000円を切ったし、薪ストーブの熱源の素晴らしさも身体で知ってる。

むしろ、自分のところから離れたところなら原発も作ってもいいという考え方こそがエゴなのだ。

建設の場という空間の軸を離れて、世代間という時間軸に目を向けてみても、核廃棄物処理は次世代にツケを回す、理性の欠片もない選択だ。


借金はするけど、支払いは子や孫に・・・って、ふざけるなっ!!そんな先祖になったら末代まで祟られるぞ!!


公共事業にしてみても、地域振興という名の下に行われるハコモノ建設にしてみても、ベクトルは同じだ。大きな借金を作って支払いは次の世代。

処理方法の見つからない放射性廃棄物はどうするの?

街の安心安全を守るために、通りに監視カメラを設置しようという感性は、おそらく団塊の世代よりも上にあるものだろう。

団塊ジュニアと言われる世代、個人的には『バブルの残骸』でしかない我々世代は有難いことに、履き違えた自由を謳歌して、全てを失った。


精神性然り、地域伝統然り、音楽然り、踊り然り。

けれども、それを再構築するのは「監視カメラによる防犯」ではない。

むしろ、再創造、リクリエーション、遊びだと思う。

どれだけ本気で遊ぶか。

コントロールを外して、解放する。

上関原発に反対する者は出て行け!というバイブレーションの正反対をすればいい。



赤塚不二夫が、「邪魔すんな、本気で遊んでんだ!」って言ったとか言わないとか。



これでいいのだ!!