祖父の想い  〜野砲兵第39連隊第9中隊 戦友会 機関誌 『藤月 第1号』より  

2階の部屋にある古い写真や冊子の中に、『藤月みとく会 機関誌 第1号』を見つけた。

発行日は、昭和54年7月7日。

発行人は、野砲兵第39 23連隊第9中隊 戦友会 藤月みとく会。

黄色に変色し、破れかかったその小冊子に祖父の寄稿した文章を見つけた。

祖父は、私が中学校へ上がるときに亡くなった。

私は祖父からの遠いメッセージを受け取るように思えた。

戦争から帰り、小さな下駄屋を営んでいた祖父は風呂の中でいつも「戦争はしてはいけない」と言っていた。

本当は音楽の教師になりたくて、師範学校に通っていたが運命はそれを許さず、学徒出陣で戦場へ。

復員後も旧陸軍将校だったことが理由で教員にはなれなかった。

自民党を支持し、靖国神社にも参拝していた祖父は一貫して、「戦争はしてはいけない」と言っていた。

岸信介元首相の書を床の間に掲げ、国を愛した祖父はどんな想いで今の日本を観ているだろうか?

岸元首相の孫の安倍首相が自衛隊国防軍にして、憲法第9条を改正するという。

いくらインターネットで検索しても現れることのない祖父の文章をPCのキーボードで打ち直し、ブログに上げるとは背筋が伸びる思いだ。


『藤月 第1号』から一部抜粋する。



”戦友愛”

戦場における戦友同士の精神的結びつきは、時として親、兄弟の血縁よりも勝る気がします。

祖国を遠く離れた戦地で、砲煙弾雨の中を共に進み、降り続く雨とぬかるみの道を、肩を抱きながら敵を追う。

十榴より山岳作戦は山砲で分解搬送、放列布置、愛馬の尻尾をたよりの夜行軍、泥水をすすって飢えに耐え、汗に濡れたカビ臭いタバコでも分けて吸い合い、家族のことも話し合う。

そのうえ、自分の死んだ後のことまで頼んだ戦友達の心情は、体験者でなければ理解できないかもしれない。

飢餓と激戦の連続でいつも死と直面した戦場生活。

国家の安泰を願い、護国の防人となり散って逝った戦友。

戦後の拘留生活で屈辱を忍び、飢えと苦役に耐え、マラリア、熱帯熱、デング熱と戦い、遙か異国の地で一人寂しく不帰の人となった戦友たち。

その心中を思い、また今日の日本をみつめたとき、これら戦友諸氏が生きていてくれたら…と悲憤せざるをえない。



戦後の日本は必要以上の「自由」を得て、大きく変革したが、悲惨な戦争で、おびただしい人たちが、その肉親を失い、青年たちは、幾多春秋に富む、花の青春を犠牲にした。

そして国民のほとんどが、あらゆる苦痛をなめ尽くした。その極限の事実を、生きた教訓として具体的に虚飾することなく後世に伝えることが、残された生存者たる我々の義務であり、戦没者の霊に応える供養であろう。

昨今私は、青年期のわが子の姿を眺め、本当の平和の有難さを認識しているだろうかと思うことがある。

病気になってはじめて健康の有難さがわかる。

同じように、戦争の渦中に投ぜられた体験者こそ、声なき声をもって、平和を熱望し祈念しているはずである。

だからこそ、後世に伝える責任があろう。

戦後派の人たちも「温故知新」その姿勢をもって、事実をより正しく深く認識し、もって、前車の轍に再びはまり込まぬよう祈りたい。

得がたく貴重な教訓こそは、むしろ今後への遺産とすべきだろう。

それこそ生存者としての価値があると思う。



(中略)



戦歴を繙けば、感慨無量。死線をさまよい、同じ飯盒の飯をつついて食べた中米の味、クリークの泥水を飲み、南京豆を食べ過ぎて下痢をした中支時代、宜昌作戦、竜北掃討戦、江南殲滅作戦と苦しい時代の思い出が、澎湃として脳裏をさまよいます。


マラリア、三日熱、デング熱にうなされて南方ボケした時。道なき道を切り開き、ジャングルを転進、海辺でヤドカリを拾って、海水で炊いた飯は苦くて食べられず、椰子の実の水で炊いた飯は、甘すぎて咽喉を通らず、三日三晩も食糧のない日が続き、編み上げ靴が駄目になり、地下足袋も駄目、素足でたどり着いたラバウル転進。


沖縄三号、さつま芋の耕作に努め、かぼちゃの花を浮かべてすすりあった味噌汁の味。

パパイヤの根っこの漬物、椰子酒に酔い語り明かした南十字星の島影の生活と、今は過ぎし昔の物語となりましたが、皆人生の貴重な体験であり、今日あるは艱難汝を玉にした気概、気魂こそ尊い生命を育み培い、感謝の気持ちで一杯です。


政府の命ずるまま身を鴻毛の軽きに比し、潔く祖国に一身を捧げてその礎となった英霊は、とこしえに崇められるべきとともに、身命を賭して奮闘した我々の労苦は、永えに犒われて然るべきではないでしょうか。

赫々たる戦果をあげ、祖国の栄光を背負って戦い抜いた誇りを、今日も各位とともに持ち続けたい。

編纂の目的は、単に体験者の回想録というだけではなく、むしろ後世へ、ささやかな真実の遺産として残すことが眼目とされ、あわせて辺境の地に散華された戦病没者の慰霊をかねると思います。


以下、略。


藤月みとく会、あるいは野砲兵第39連隊で存命の方がおられたら是非お会いしたいと感じた。