不確実性の排除と責任の不在が、乳酸菌や酵素を殺す。

月に一度、定例会ということで招集される社会福祉についての会合の中で、老人クラブの運営について、一人の委員が発言した。

「我々のクラブでは、年寄りが持ち寄りで自分で漬けた漬物を食べておったが、市の社会福祉課からの通達で、止めるようにと。みなさんも周知徹底してください。」

またこの手の話だ。

だんだんと自分がどんなことが好きでどんなことが嫌いで、どんなことに反応するかが分かってきた。

老人ホームに勤務していたことが、それを助長しているのも知っている。

老人介護施設では、事故を極端に嫌う。

生モノの持ち込みは厳禁だ。

安心、安全が第一だし、もちろん善意から発したものだろう。

しかしながら、例えば日清医療食品で厳重に管理されたものならOKなのだ。

特別養護老人ホームに、市場で購入した新鮮な魚を持って入れば、喜ばれるどころか消毒液を持った看護師さんがすっ飛んで来た。

自宅でもそれをするのかと尋ねたら、自宅ではしないと。

有料老人ホームで、七輪を持ち込んで旬の秋刀魚を焼けば、「次回は必ず届出を出すように」と。

「それは秋刀魚許可申請ですか?」とせめてもの皮肉を言ったつもりが、「そうです」と言われた。

つまりは、不確実性の排除と責任の不在なのだ。


年寄りにとっては、畳の上で長年暮らしながらも、いきなりベッドと車椅子の病院のような暮らしの強要。

職員にとって昼間は10人、夜は20人の中のひとりであるから、白い壁と天井とテレビを見て過ごすしかない。

「普通の魚が食べたい」

この当たり前で、健康で文化的で人間的な願いは、施設介護の計画の中では、排除されがちだ。

包括支援とか介護プランだとかカンファレンスだとか、言葉や概念は先走りするが、大切などこかがポッカリ抜け落ちる。

むしろ、介護職員にとってのケアプラン作成や介護記録の記入は、実際の介護の仕事が終了してからの残業でもあるから、仕方が無い。

毎日が繰り返しの施設入所の年寄りにとっては、偶然性や突発性の何かは嬉しいことなのではないか。

思いもよらない何かや、ドキドキワクワクするような何か。

先に述べた「手作りの漬物の禁止」もきっとスーパーに売られている「手作り風漬物」なら、全く問題ないのだろう。

味付けは「化学調味料」、保存は「ソルビン酸」、色落ち防止には「酸化防止剤」、酸味は「酸味料」

「アルコール」「調味料(アミノ酸等)」「pH調整剤」「ステビア」「サッカリン」「ソルビン酸」「着色料」・・・・びっくりするほど大量の添加物が使用されている漬け物のカタチをしたニセモノが奨励され、年寄りの手作りが禁止。

よくTPP反対だとか、反原発だとか、集団的自衛権のことだとか新聞や雑誌を賑わせているが、問題はもっと身近なところにある。

「僕はここには喜びや楽しみを見出せません。僕の友達や仲間の中の当たり前はここでは異常と見られる。」

おそらくは、誰も理解できないだろうが言うだけ言った。

髭を生やしたり、髪の毛が長かったりする人たちのマルシェでは、酵母や酵素を使った食べ物が人気だし、添加物は「ケミカル!」と嫌われている。

同じ言語を用いて、同じ地域に暮らしながらも、これだけの現状認識に差が出ると、もはやパラレルワールドのようだ。

韓国の友人宅で食べたキムチは酸味があって美味しかった。

「このキムチは賞味期限内ですか?」などと聞く必要はなかった。

タイの知人のマッサージは心も癒してくれた。

「あなたはマッサージの資格がありますか?」などと尋ねる必要はなかった。

風のまつりのお店で食べるときに、「食品衛生許可は取っていますか?」なんて聞かない。

自分のものと他人のものを分けていないから。

そこにはボーダーはないから。


子供たちの中に、手作りが苦手な子供が出て来ていると聞いた。

手作りが不潔で、コンビニやスーパーの陳列棚に並ぶものが清潔だという。

手作りの漬物を禁止したお役人さんも、いざ自分が老人ホームに入って、骨抜きにされて張り合わされた焼き魚を食べた瞬間に気がつくだろう。

その時には、もう手遅れだということに。