誰もが万世一系の最先端の命。 誰もが誰一人もが、命の繋がりの端っこ。
年末から、天草に行って帰った。
「天草に行って帰った」というフレーズは、個人的に物凄い意味を持つ。
個人的なので、実にどうでもよいことであるのだが、これまた個人的に社会人類学的に、参与観察することが好きなのでこの節穴から見えた絵を。
そもそも、今回は妹家族が天草に行くというのに乗っかっただけ。
妹の運転する車の助手席に乗って、コンビニに出会うたびにカップの焼酎を買って飲み続けるというかつてない旅。
ちょっとくらいは意味のあるものにしちゃろうかと、色気を出して「柳の水」を一升瓶に汲んで車に積んでった。
やっぱりそういうアタマで考えたことは基本的にアタマで発想したことに過ぎないということが分かるためかどうか知らないが、福岡と佐賀の県境辺りのセブンイレブンの駐車場で、車のハッチバックを開けたときに、
「パリーーーーーーンッ!!」
あの音は忘れられない。
一瞬、何が起こったか分からなかったけど、次の刹那、いろんな形の破片になったかつて一升瓶だったガラスが砕けたのが分かった。
夜のコンビニの駐車場のアスファルトに、いろんな形のガラスと松の枝のように流れる柳の水の色。
元旦の朝、近所のスーパーで買い物。
知らない町のマーケットは、最早、大都会になってしまったアジアの市場を思い出させてくれる。
山口とは明らかに顔が違うのだ。
眉毛の太さ、言葉のイントネーション、それは例えコンビニの店員さんであっても、ファミレスのパートさんであっても、間違いなく残る何かなのだ。
よかですか?
久しぶりに会った父親は、相変わらずだったが驚いたことにインターネットを楽しく活用していた。
本来的に新しいもの好きなのだと思うが、光ナンチャラとかいうものを導入して、妹家族の持つアンドロイドってかスマホ?タブレット?とかそういうのをうまく自宅の大画面のTVと繋ぐ家庭内インフラを作っていたので畏れ入った。
ボケてはいないし、むしろ冴えていたので安心した。
帰りにもらった漬物もどうせ専売公社のNaclでも使っているのだろうと思ったら、何と!パキスタンの岩塩を使っていると。
畏れ入りました。
売り物になるよ、これ。
あんまり一緒に暮らしたことがないので、どんな考え方をしている人間なのかが分からないからこそ、たまに話すと面白いなと思った。
酔っ払って、甥っ子のサッカーボールをドリブルしようとしてたら、3秒でコケタ。
腰を強打したけど、別になんともなく、さすが若いぜと思っていた。
夕方に、北島大ちゃんから電話。
おぉ、久しぶりとガラケーと蓋を開いたら、そのまま上部が折れた。
わぉ。
ケータイ真っ二つ。
さっきコケタ時に割れてたのだね。
柳の水しかり、ケータイしかり、よく割れるな。
災難に逢うときにはしっかりと逢うことを信条としとるけど、まぁモノが壊れて、大難が小難になった。
身代わりになってくれて、ありがとう。
一人称で言えば、私、つまり「この人」が生まれたときに祖父が植えたという泰山木が元旦の風の中で喋りかけてきた。
その木にもたれかかって、同じ年の縁をお互いに感じあった。
目の前には、桃色の花が微笑んでいた。
言葉にはならないけども、植物は人間に話しかけている。
山口から送ってあった日本酒を、曽祖父の弟という人物が焼いたという徳利に入れて、元旦の夜に、父と息子で飲み交わすということは、現代においては、かなり幸せなことなのだ。
昭和22年の写真。
九州奥地現地人というルーツ。
自分もここにつながっているという感覚。
誰一人欠けても、今はない。
誰もが万世一系の最先端の命。
誰もが誰一人もが、命の繋がりの端っこ。
そんなことを感じたよ。
ありがとう。
そいじゃけど、いろんなモノに執着したらいけんって、仏教の本には書いてある。
神道にはなんも書いてないけど、祖先は大事にするじゃん?
家督とかって、いつからある思想なんだろうか?
その辺りが今の疑問。
上手に手放して、上手に受け継ぐ。
うまく言えんけど、今はそう思う。
この本、もらった。
今年のうちに、柳の水と千光房のランプを天草に届けたい。