これは未だないのか、これからもないのか? クアラルンプール 〜 ペナン島



21 日

 午前4 時、死ぬほど暑くて目が醒める。

マレーシア、KLにて。

 狭いこの部屋に2段ベッドが3つ。

計6人が寝ている。こんな扇風機の風じゃチカラ不足。

熱気を送る熱風機じゃ。

 
日本の老人ホームで働いていた頃の担当のおじいちゃんとメールして
いる。

 (おじいちゃんと云ってはいけない。入所者様、利用者様が正しい)

 さすがにキーボードは打てないので、書いてもらった手紙を生活相談
員さんに代打してもらっている。

 こちらからは各地の絵葉書を送り、それの返答がメールで届く。若い
頃、ギターにカメラに車・・・道楽の限りを尽くしたという彼からの
メッセージは、うれしく、たのしく、そして哀しい。

 ベトナムラオスカンボジアにはいわゆる老人ホームはないように
見える。

 これは未だないのか、これからもないのか?

 インドネシアで出会った男は、「家族は家でケアするものだ」と言っていた。

 日本の福祉の世界でいう「ケア」と彼との会話の中でいう「ケア」と
いう言葉に微妙な違いを感じた。

 経済が発展してゆく中でどんどん忙しくなってゆく人々。

その中で忘れられ、いや忘れたようにして置き去りにされる人やコト。

生産性と効率のモノサシだけで全て測っちゃっててええのか?

 午前9時、バックパッカーズインをチェックアウト。

30分後にバタワース行きのバスに乗る。

途中、バスが止まり休憩になっても、物売りに囲まれることがない。

静かなものだ。

ここがベトナムだったら、すぐに周囲を囲まれる。中にもスリもいた
り。

 マレーシアはさすがアジアの優等生。

だけど、一抹の淋しさを感じた。

あのガツガツした目のベトナムが懐かしくさえ思った。

 バタワースのバスターミナルに隣接する鉄道駅で25日の日付のタイ
行きのチケットを買う。

 フェリーに乗り、ペナン島へ渡る。12年ぶりのペナン島

 ビーチに程近い「弁慶」という宿に泊まったことを憶えている。

まだあるだろうか?

記憶の中にあるバツフェリンギという名前のビーチを頼りにバスに乗る。




 22 日

 12 年前と同じように、「弁慶民宿」はマレーシア ペナン島のバツフェリンギビーチにあった。何も変っていない。

 誰が書いたのか分からない歪な漢字の看板もそのまんまだ。

 12 年前と違うのは、日本人の旅人がたくさんいること。

あの当時は日本人は一人だった。

 「これからは日本人の旅人が増える」そんな予感からこの名前を付けたと言っていたが、勘は見事に当たったようだ。

 学生3人組、関西2人組、大学院生、マスター、アツコさん、いろん
な旅人が泊まっている。

 昨夜は出会いに乾杯っーことで、ガーニードライブまでバスで出て、
屋台でメシを食う。

 宿に帰って、部屋で朝4時まで喋る。

 目が醒めると昼だった。

みんなもう起きていた。

長崎から来た2人が宿を出てゆく。

昼飯を5人で食べる。

 食べている途中、外は大雨になる。濡れながら宿に戻り、3人でビー
ルを飲む。

大学院生はチェックアウトに向けて、荷造りをしている。

すげーでかい荷物だ。

 カンボジアとマレーシアの太鼓が一つずつ、チベットのシンギングボ
ウル、ベトナム口琴

 このオモチャがたくさんの友達を作ってくれる。

大石静のエッセイと加藤諦三の説教くさい本を交換する。

 17時、その諦三の持ち主がチェックアウト、バス停まで見送る。

みんな行っちゃった。


 夕方、アツコさんと夕日を観にビーチへ行く。

雲が厚く、ここでも海へ沈む太陽を見ることはできない。

砂浜ではたくさんの子供が服を着たまま波打ち際で遊んでる。

 アラブのセレブのみなさんも黒装束のまま、バナナボートに乗ったり
なんかしてる。

 高級ホテル シャングリラのプールサイドからバーを抜けて、ラウン
ジへ。

 宿泊客の振りをして、ソファに座る。

テーブルに飾られた赤い花が眩しい。

隣のレストランから生演奏のBGM。

 弁慶民宿もいいが、こんなんもいい。

周囲の宿泊客のみなさんと明らかに違うのは、我々の服装だが、気にしないなら、気にならん。

気にすると気になる。

アツコさんと話す。彼女は3ヶ月ここにいる。

貝殻で風鈴を作ったり、花を育てたりしてる。

 宿に帰り、部屋の入り口にテーブルと椅子を引っ張ってきて、コンビ
ニで買ったビールと柿の種で乾杯。2人で宴会。

かなりの幸せ感。