ある男の一生
「人は何の為に生きるのだろうか?」
そんな疑問が彼の心にもふとよぎる時があった。いや、いつもその疑問が心にはあった。
けれどもそんな疑問に答えてくれるのは、大学の哲学科の教授や著名な精神的指導者で「自分ではない」と彼はその疑問から目を逸らしてきた。
その疑問に答えようとすると、彼は見たくないものを見なければならなかったし、それは彼にとって恐怖だった。
幸いそれから目を背けるための材料、マトリックスは山のように用意されていた。
お金、ギャンブル、TV、仕事、食べる、飲む、買いもの・・・。
彼にだって、何も始めからそれらに絡め捕られてきたわけではない。
いつもサインはあったのだ。
「人は何の為に生きるのだろうか?」
それに気づくサインも、マトリックスの数と同じだけ、いやそれ以上にあった。
だが、彼には「そんなことを考えてる時間はないし、それを考えるのは今じゃない」と自分に思わせていた。
彼には時間がなかった。
何もそれは彼のせいだけではない。
「そんなことを考えるのは今じゃない」と彼に思わせる仕組みが彼の周りには溢れていた。
彼が生まれたのは、小さな地方都市。親の世代は団塊の世代と呼ばれ、戦後日本の経済成長を支えてきた。
親の世代が第一次ベビーブームで、彼の世代が第二次ベビーブームと呼ばれた。
生まれたときのことはさすがに憶えてはいなかったが、助産院で産婆さんに取り上げられるのではなく、立派で近代的で清潔な産婦人科で産まれたらしい。
物心つく頃には、家の中にはテレビがあり、洗濯機があり、冷蔵庫があった。
小学校にあがる頃には、電子レンジという火のない箱で食べ物が温まることを知った。
ウルトラマンや仮面ライダーを見ながら大きくなり、歌番組が流行し始めた頃には、VHSという名前の付いたビデオがブラウン管テレビの上にやってきた。
大きくて扱いにくいレコードが、小さくて銀色の雑音のないCDに代わった時には、この便利で快適な進歩というものは永遠に続くとさえ思えた。
父親は会社で給料をもらい、母親はそれをやりくりしながら生計を立て、新しい家電製品が発売されるとそれを買い、自動車は新車を買うことが当たり前だった。
流行歌はすぐに100万枚のセールスを記録し、街は活気に溢れていた。
地元の幼稚園に通い、小学校、中学校と進学するなかでは何の疑問もなかった。
誰もがそうするからそうするまでで、そこには理由も何もなかったから。
「人は何の為に生きるのだろう?」
初めて彼の中にそんな疑問が生じたのは、中学校から高校へと進学する受験の頃だった。
xやyが無意味に並んだ数学や、話し相手の外国人もいないのに憶える英単語に疑問を感じたのは彼だけではなかったはずだ。
けれども、「そんなことを考えるよりは、今は目の前の受験に受かること」が先決だった。
「みんながそうするから」という理由で地元の公立高校に入ると、2年間の執行猶予が与えられた。
2年間は自由が与えられたのだ。
高校3年になると、また受験がやってきた。
さらに代数幾何、化学式、漢文が彼の目の前にやってきたが国立大学に入るためにはそれらをマスターしなければならない。
「なんでこんなことをしているのだろう?」
そんな疑問が頭をかすめたが、そんなことを考えているうちに同じ関門を目指すライバルは先へ進んでいるよと諭された。
数式や英単語を記憶することに慣れた頭には、「人は何の為に生きるのだろう?」という疑問は馴染まなかった。
受験勉強の合間に聴くカセットからは、忌野清志郎が『放射能は要らねぇ。牛乳を飲みてぇ』と歌っていたが、何のことか理解するには年月が必要だった。
多くの友達が東京や大阪といった都会の大学に進学する中で、これくらいがちょうどいいと思える地元の国立大学に入った。
まだ選択の余地がある。
あっちにもこっちにもなれる。
大学に入ってしまえば、また猶予期間が訪れた。
都会に出てアパートを借りて仕送りを続けることを思えば安い買い物だという父親が中古のトヨタのセダンを買ってくれた。
ディーラーの営業マンはかなりのやり手で、新車を売る顧客から中古車を下取りで仕入れて、顧客の知人に中古車を売り払う、法律すれすれの儲け方をしていた。
そのルートで流れてきたセダンは後輪駆動の面白い車だった。
今度の執行猶予は4年だ。車であちこち走って、憶えたての酒に、居酒屋でコンパの日々。
バブル経済というのはこのことだということだ。
バブルの中にいる者は、バブルだと知らない。
水の中にいる魚は、水のことを意識しない。
3年が過ぎた頃、そのバブルというものが弾けた。
売り手市場だと言われていた就職戦線は、一気に買い手市場に変わり、就職難がやってきた。
こうなれば公務員しかない。
狭き門の採用試験だったが、受験をくぐり抜けてきた彼には何ということもなかった。晴れて役人になった。
東京へ出て、東京の大学へ入った同級生の多くは広告代理店、銀行、ゼネコンなどに就職したが、小さな地方都市で暮らすには公務員が一番だと思ったし、父親も母親もそれを望んでいた。
役所に入ると、すぐにこれは学校の延長だと気が付いた。
しかもこの学校には卒業がない。家と職場を往復する毎日が始まった。
エアコンの効いた部屋を出て、エアコンの効いた車に乗って、エアコンの効いた職場で働く。仕事は主にパソコンに向かい、数字とにらめっこ。
何年かして仕事にもなれた頃に知り合った女の子と結婚をして、親元を出てアパート暮らし。そのうちに2人の子どもに恵まれた。
子どもが小学校に上がる前に、何の気なしに訪れた住宅展示場。テレビのCMで有名俳優が、綺麗な女優扮する嫁さんと明るく健康でエコだと宣伝している大手メーカーの展示場には夢があった。
オール電化でかなり二酸化炭素の排出量を減らすことができるのはいいことだ。(このときは本気でそう思っていたのだから仕方がない)
780万円で展示場をお譲りしますというキャンペーンに応募して、落選したが2番目にお得な特別プランに見事当選、ラッキー!
こんな家に住めば、きっと毎日が夢のようになる。大学を出たばかりだという営業マンの誠実そうな笑顔が契約書に判を押させた。
30年ローンの始まり。
月々8万円、ボーナス30万円の支払いは5年後には月々10万円、ボーナス40万円になったのは誤算だったが、公務員だから大丈夫。
ただボーナス払いは、実はボーナス加算で、月々の支払いにプラスされるってのは納得がいかない。
まぁ問題なく上司ともうまくやっていけば支払いが滞ることもない。
新築の家に家族4人で夢のような日々が始まった。
環境、福祉、土木、観光・・・いろんな部署を回って、社会の仕組みについては十分に理解し把握した。
子どもたちが成長するにつれ、教育費が嵩んできたために、妻もパートに出るようになったのは助かったが、毎晩のおかずがパート先のお惣菜になったのには正直参った。
子どもたちが塾に行くためだ、仕方がない。子どもたちには教育が必要だ。
朝8時半から夕方5時までの授業を受けるような仕事。その毎日。
帰宅すればビールとテレビが待っている。巨人が勝った翌朝の読売新聞が楽しみ。
時々『原発反対』の旗を掲げた人たちが役場にやってきて何かを訴えてきたけれど、午後5時までの辛抱だと耳を塞いだ。
左翼は嫌いだ。
赤だから。
彼らは彼らの生活のことを主張しているようだ。
彼らは何かを必死で訴えていたが、こっちには家族がある。ローンがある。こっちも生活が掛かっているんだ。
「原発を作ることはトイレのないマンションを作るのと同じ」とか、
「高レベル核廃棄物の処分方法が確立していない」とか彼らは言っていたが、公務員は賛成とか反対とかしちゃいけないんだ。
税金をもらって、それが給料になるんだから政治に関わっちゃいけないんだよ。
公務員は政治には関わらない。
公務員は法律に則って粛々と仕事をするだけです。
原発建設は国策だ。
国が安全を保障してくれるんだ。考えちゃダメだ、考えちゃダメだ。
子どもは成長するし、親は老いていく。
忙しい毎日の中で親の介護が問題になってきた。
お上が用意してくれたプランは社会福祉による包括支援だとかなんとか。
よく分からなかったが、要するにお金を払えば年寄りの面倒を何から何まで看てくれるらしい。
経済的な負担は増えたが、何せ時間がない。
年寄りの下の世話までいったい誰がするんだ。
成長し、結婚した息子の嫁とは折り合いが悪い。だって一緒に暮らしたことなんてないし。
考えちゃダメだ、考えちゃダメだ。定年まで、考えちゃダメだ。
上から言われたことを忠実に守って何事も穏便に。
それが6・3・3・4の16年間で受けた教育の成果であり、処世術なのだ。
その繰り返しを30年続けて、家のローンが終わった。
それと時期を同じくして父親が亡くなった。
介護施設と病院と葬儀会社の連携は手馴れたもので、流れ作業のように全てが滞りなく行われた。
家族葬は、近所の人も呼ぶこともなく、楽なものだ。
定年で退職金があったから、退職金で家を建て替えようと思ったが、2人の子どもが自分と同じように家を新築するための援助と父親の癌の治療費と葬儀費に消えた。
孫のうち2人は地元に建設された原発に就職が決まったらしい。もう安心だ。
なんとかこの古い軽量鉄骨プレハブ住宅で老後を過ごさなければならない。
色の変わってしまった外壁と、新築のときには外気を遮断していたペアガラスの窓から結露が激しい。
そうして毎日が過ぎ、70歳を過ぎた。
「何をすればいいんだろう?」
そればかりを考えていた。
好きなことをすればいいんだと人は言うが、学校を出て再び学校のような職場に入った彼には自分が何が好きかさえ分からなくなっていた。
本当の自分の心の声に耳を傾けることを避ける習慣とは恐ろしい。
最後には空っぽになり、何にもなくなるようだ。
ある日、同じ市内に住んでいるが、滅多に顔を会わすこともない長男夫婦が珍しくやってきた。
どんな話があるのかと思った。
「近所に出来た特別養護老人ホームに入らないか?」と言われた。
聞くところによると、24時間体制で資格を持った若い介護職員が付き添い、栄養の管理された清潔な食事が安価で受けられるらしい。
子どもたちの足手まといにはなりたくないので、夫婦で入所することにした。考えちゃダメだ。
今までの自宅での生活とはうって変わって、集団生活が始まったのには驚いた。
新築のコンクリートの建物は冷たかったが、入居のために払った大金のことを思うと文句は言えない。
真っ白な天井も、初めての靴を履いての生活も直に慣れると思う。
監視カメラと立ち上がりセンサーが転倒による骨折事故を防いでくれるから安心安全だ。
夜中にベッドを降りようとするとナースコールが鳴り、夜勤の職員が窓から覗くなんて仕組みを考えたのは誰だ?
あぁ、そういえば社会福祉の部署にいたときに『監査』すると、視察に来たのはここの施設だったかもしれない。
風呂は午前中。
ストレッチャーと呼ばれる台車に乗せられて浴場に運ばれ、浴槽が下から上がってくる。
若い女の介護士に陰部を洗われるのは恥ずかしいと思ったのは始めの1週間だけ。
風俗と思えば、それはそれ。
できればもっと若い職員がいいと思うようになった。
刺身などの生ものは原則禁止。外出は月に一回の買い物。
夜の消灯は20時で、それ以降は本も読めない。
夜勤の職員次第では大目に見てもらえるが、すべて介護日誌に記録され、一挙手一投足が管理される。
これも私が公務員時代に机の上で練ったプランによって作られた社会福祉だ。
私は私が作った枠の中にいるのだ。
あぁ、結局また学校に入学した。
きっとこれが最後の学校生活になるだろうということは私にも理解ができた。
夜勤の職員が巡回して、私が生きているかどうかを確認しに来た。
呼吸で掛け布団が上下しているのを確認して、介護職員は介護日誌に「特に変化なし、良眠」と書き込んだ。
私はよく眠っている。
来週は、子どもは面会に来てくれるだろうか?
タバコを一本吸いたい。ビールも飲みたい。
カーテンを閉めて音量を下げてこっそり点けたテレビで県内に立地した原発が爆発したと緊急速報していた。
定年前に耳を塞いで黙殺した、地域住民が反対していた原発だ。
あの時の福島の事故で止めておけば良かったのだ。
美しい海を埋め立てて原発を建てるなんて異常だ。
異常だとは分かっていたんだ。
私も本当は薄々いや、重々感じていた。
けれども、ローンや家族や介護のことで何も言うことができなかった。いや、言わなかったのだ。
そのうちに施設中が大騒ぎになった。
この老人ホームにも放射能が降り注ぐに違いない。原発からここまでは60kmしか離れていない。
けれども私にはもうそこから逃げ出す気力も体力もなかった。
「人は何の為に生きるのだろう?」
もうそんなことを考える必要もない。
私はただ白い天井を眺めているだけだった。
テレビに出た官房長官が言っていた。
「直ちに人体には影響はありません」 また、これか。
息子や孫はどうなるんだろう?
本当に申し訳ないことをした。
けれども、私はやっと学校を卒業できる。
薄れる意識の中でそれだけが分かった。放射能が降ろうと降るまいと関係ない。考えちゃダメだ。
国策なんだ、大丈夫だ。
国の政策なんだから、間違いない。
何かあっても必ず国が保障してくれる。